私の履歴書
0歳~中学卒業まで(15歳)
- (1) 昭和28年5月 熊本市生まれ
- (2)同年6月26日 熊本は大水害に見まわれ、死者行方不明者400名以上を出しました。
私が産まれたばかりのアパートもあと少しのところで流されるところだったらしいです。
両親から「あなたは死んだ人の分まで世のために尽くしなさい。」と言われて育った私。
※この時の体験から私のトラウマになったことは・・・
- ①水が苦手・・・風呂や温泉・水泳などです。
- ②すぐに他人の手伝いや世話役をする癖がつきました。
- (3)父親は、日本電信電話公社(今のNTT)の市外電話局員だったので、毎年のように転勤。
このため、私も九州県内の小学校を6回・中学校を2回転校しています。
あまりに転校が多かったので、この間の友達はできませんでした。
※転勤族の子供としての考え方が出来上がったのがこの頃です。
- ①気持ちの切り替えが早い
- ②くよくよしない
- ③誰とでも友達になれる
- ④過去に拘らない、未来志向型人間になった
- ⑤やらない言い訳を探すより、どうしたら出来るかの道を探す癖がついた
16歳~18歳(高校時代)
- (1)熊本県下ナンバーワンの進学校に進路指導の先生に強制的に薦められ入学しました。
中学3年生の時に熊本に来たため、高校のレベルも知らないままに入学してしまったので、
当然自分の実力が追いつかず、成績はいつも赤点ぎりぎりの3年間でした。
※進学校ゆえに周りがみんなライバル・・・
- ①なかなか友達ができなかった
- ②生徒会の役員になって、学校全体を見回すことが出来るようになった
- ③男女関係のもつれから、女性生徒が校舎に放火
- ④新校舎ができるまでずっとブレハブ校舎だった・・・さんざんな目に遇いました。
19歳~24歳(大学時代)
- (1)大学は福岡市内の2校を受験し、小さくて楽しそうな方に入学ししました。
- (2)商学部と法学部の2つに合格しましたが、将来の選択範囲の広さを考えて、商学部に入部。
ところが、商学部のテキストを見た瞬間に、簿記関係がさっぱりわからないのに愕然。
このままでは、単位が取れずに留年すると思ったので、簿記クラブに入ります。
ここで、現在の家内と出会うことになり、出会って8年後に結婚しました。
- (3)大手の銀行から来ていた教授の話が面白かったので、その銀行に就職したいと思っていました。
- ①ところが、4年生の時に「第一次オイルショック」が始まり、それまでの銀行や商社大企業などからの就職が全く来なくなって・・・
- ②そこで、大学院専攻過程に進学し、教員免許を取り、教師になろうと決めました。
25歳~26歳(社会人になる)
- (1)家内と結婚して、二人で税理士事務所を開こうと決めた時、熊本にいる父親から、市内の税理士事務所が社員を募集していると教えてもらったので、そこに就職します。
- (2)ところが、そこは超ブラック事務所。1日12時間勤務はざら。給料は集金の歩合制。
何よりも職員が次々に辞めていく事務所で、私が入社し時も先輩からの引き継ぎは全くなし。
- (3)同じ市内に住んでいながら早朝から深夜までの勤務だったので、体が持たず、アパートを
借りて仕事にいく有様でした。
- (4)このままでは、体が持たないし、給料は安いし、婚約していた家内との結婚もできないとわかったので、丸2年経って、その事務所を退職しました。この時は6名した社員が全員一斉に辞めましたね。
※先輩からの引き継ぎもなく、顧問先へ出向き、初めてその会社の帳簿を見ることに・・・
- ①顧問先の帳簿を見てみると、無駄や不足が目立ったので、帳簿の合理化・有効活用に努力しました。
- ②銀行借入の相談や資料作成のお手伝いもたくさんとっても喜ばれたのを覚えています。
- ③ところが税理士先生から、職員は試算表と決算書だけ作ればいい、と厳しく注意されるはめに・・・
- ④これまでも社員が次々に入っては辞める事務所だったので、私も次第にやる気をなくしていきました。
27歳~30歳まで(独立)
- ① 税理士事務所を辞めたので、教員免許を持っていたから、教師になろうと思っていたのですが、
担当していた多くの顧問先から「これからも面倒を見て欲しい。」とオファーがたくさん来ました。
私は税理士の資格は持っていないので、無理ですと断ったのですが、税理士は探せばよかろうと言われ、個人で計算センターを始めることになってしまって、現在に至ります。
この時、顧問先からのオファーがなかったら、私は間違いなく教員になっていたでしょうね。
- ② 25歳で独立した時に、ある水産会社に事務員として勤務することになります。
私は多くの顧問先を抱えていましたが、自由出勤にしてくれて助かりました。
そこでは、ドライバーが病気や免停で動けない時は、代わりにトラックを運転し、フェリーで四国までとか、九州各地の水産市場まで走った事も多々ありました。
当時はスーパーの全盛時代だったので、4トン車で走り回りました。
昼は事務、夕方からトラックで運転手と掛け持ちしたのは、懐かしい思い出です。
※この時、顧問先が困っていることを解決するのが、税理士事務所の1番の仕事と確認しました。
この時の気持ちは今日までずっと続いています。。
- ③ この会社は社長の離婚や、資金繰りのトラブルから、私が35歳の時に不渡りを出し倒産。私はその数か月前に怖くて退職していたので、被害はありませんでした。最後には融通手形や、白地手形など、今思えばぞっとする資金繰りに陥っていたのです。
- ④ 30歳の時に、お弁当のFC本社から声がかかり、熊本県のFCグループの計算センターの仕事を頂くことになりました。当初は5店舗から始まり、現在では200店舗近くまで増えています。
- ⑤ 昭和60年代になって、空前のバブル時代となり、女性の社会進出に伴い、弁当への需要が爆発的に伸びます。このため店舗数も増え続け、会社でも社員数が増加し、業績は順調に伸びていきました。
担当のエリアが熊本県・宮崎県・大分県など広範囲に渡ったため、1年間30000キロも走って顧問先を訪問していました。水産会社でトラックを運転していたため、長距離も苦にならなかったのです。
色々な問題の解決は、現場にありと、経営者との対面を重視して頑張りました。
- ⑥ しかし2012年、親会社の分裂騒動が勃発し、当社の顧問先の30%がライバルへと移っていきました。
- ⑦ 突然の売上激減に見舞われ、これをカバーしなければと、同業者の買収(今でいうM&A)を考えました。
しかし親会社から、損失補填の申し入れがあり、その後売り上げは少しずつ戻ってきました。
最も、完全に戻るまで5年を要しましたが・・・
- ⑧ この時の資金繰りを助けたのが定期性預金。失った売上に匹敵するまでに溜まっていたので本当に助かりました。改めて内部留保の大切さを確認できました。この経験から、会社を助けるのはキャッシュフローだとこだわるようになります。
- ⑨ 大切なのは、損益計算書よりも貸借対照表だと確信し、多くの顧問先にアドバイスしています。
- ⑩ 平成9年に、財務改善と社員教育に特化した別法人を、顧問先からの要請で立上げた。これが現在の㈱キャッシュフローコーチ熊本の前身。
- ⑪ 令和5年8月の決算で70歳を迎えたので、計算センターの社長を女性社員に交代しました。
個人時代から通算すると45年の節目です。
現在は監査役としてのこり、後輩の指導に当たっています
私は長いこと財務改善の世界に没頭してきました。それは、勤めていた水産会社の倒産が一番の教訓でした。どんなに利益が出ていても、資金繰りが悪化すると、企業は一気に傾くという現実を見せつけられ、このような不幸を繰り返してはならない・・と固く自分に言い聞かせています。
現在の状況は、企業にとっては苦しい状態が続いています。これを打開し、生き残ろ企業になるためにも、常に経営者に寄り添いながら、人生も企業もハッピーになるお手伝いを、これからも続けていきたい所存です。
代表取締役 吉冨健一